【インタビュー企画】Pinnacleブランドインフルエンサー・元プロサッカー選手 能登正人氏 | ブクサカ

【インタビュー企画】Pinnacleブランドインフルエンサー・元プロサッカー選手 能登正人氏

Pinnacle(ピナクルスポーツ)ブランドインフルエンサー、能登正人さんのインタビュー記事のアイキャッチ画像
業界コラム

2022年12月、(当時現役サッカー選手、現元プロサッカー選手)能登正人さんがイギリス大手スポーツブックメーカーのPinnacle|ピナクルのブランドインフルエンサーに就任しました。

日本では現役・引退後を問わずプロアスリートがスポーツベッティング企業の活動に関わることは非常に珍しかったため、このニュースを見たブクサカ編集部では「なぜ現場に近い立場の方が、スポーツベッティング関連の活動に従事するようになったのだろう」と彼に強い関心を持ちました。

そこで2023年2月にロンドンカンファレンスにてPinnacleの社員さまと直にお話し、ブクサカ編集部によるインタビュー企画をご提案させていただいたのがこの企画の背景です。

元プロ選手がスポーツベッティングをどのように認識していて、実際に自分が出場する試合が賭けになっていることをどう受け止めているのか?

当インタビューでは、日本ではなかなか表に出て来ない選手目線のスポーツベッティングにも切り込み、Pinnacleブランドインフルエンサーを務めるに至った能登正人さんの価値観、キャリアについても焦点を当てております!

サッカー+サッカー以外の活動で広がり続ける能登正人の世界

2023年現在、解禁に向けての動きは出てきているものの、まだまだ海外と比較すると温度差があると言わざるを得ないのが日本でのスポーツベッティングです。

そんな中、これまで欧州やアジア各国でプレー経験がある能登正人氏が海外ブックメーカーピナクル(Pinnacle)のブランドインフルエンサーに就任。今回彼が関わるようになったのは偶然が重なったものだったようですが、それを引き寄せたのはサッカー選手にとどまらない独自のキャリア感をベースにした考え方、動き方によるものでした。

この機会に能登氏の選手生活の振り返りや海外でのスポーツベッティング事情、現在と今後の活動について、インタビューでお話を聞きました。

能登正人

1990年生まれ。大阪府枚方市出身。高校卒業後、両親に借りた100万円を握って渡欧。スペイン、ドイツ下部でのプレーを経て、ハノーファーのセカンドチームに所属。2013-14シーズンはタイの複数クラブ、2015年はJ2千葉でプレーした。ラオス、インドネシアのクラブ所属の後は東京ユナイテッド、南葛SCと渡り歩き、現在は南葛SCでホームゲーム運営やパートナー営業を任されながら、多方面で活躍をしている。

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インタビュー実施日:2023年3月20日(木)

 

ピナクルとのつながりはSNSから。スポーツベッティングがある日常を過ごした欧州との違い

──活動の幅を広げる中のひとつが今回ピナクルのブランドインフルエンサーだと思いますが、どのような経緯で就任されたのでしょうか?

現在、ピナクルとの間に入っている会社の方から、SNSで連絡をいただいたのが最初です。

 

──ブックメーカー企業のイメージは、海外と日本では大きく違いますか?

海外ではスポーツベッティングがあるのが日常でしたから、それは違いますね。自分が出場している試合が賭けの対象にもなっていましたし。

そこでお金が回ってリーグが盛り上がることもありますし、選手である自分の生活が豊かになることでもありましたから、変な先入観もなくお受けしました。

Pinnacle(ピナクル)のロゴが入ったボール

──ブックメーカーが日常にあるという部分をもう少し聞かせてください。

ドイツもスペインもそうでした。当たり前のように、『今週末に試合あるけど、お前どっちが勝つと思う?』とみたいな話から、『いや俺はこっちに賭けた』みたいな会話が常に街にありました。本当にそれが根付いているので、あらためて意識することもないぐらいです。

日本では、勝ち負けとか賭け事にめちゃくちゃ悪いイメージがありますよね。でもビジネスも勝負事だし、生きてる以上そういう場面から離れられないわけで。

日本では学校でお金の教育がなかったので、海外に比べるとリテラシーとかがすごく低いんだろうなと思います。子供ではなく、働いてる大人がやることですし、スポーツを熱く応援する気持ちでベッティングするのだから、ただギャンブルの性質があるだけではないでしょう。

それが文化になってる中に身を投じていると、それが普通という感覚ですね。チームのスポンサーをやっているブックメーカーは多いですし、稼いだ会社からお金が回ってさらにリーグやクラブが盛り上がっていると思います。

海外でもみんなが賭けているわけではありません。ただ目に止まる回数が多いというか、普段生活していて、カフェなどの飲食店、商業施設のあらゆる場所でスポーツが放映されていることが多いです。日本ではスポーツバーや、店主がスポーツ好きな店以外ではバラエティ番組かニュースが流れている印象なので、そのあたりも違いは感じます。

 

──ブランドインフルエンサーとして、今後どういった活動をするかは決まっているのでしょうか?

月に一度ミーティングして、都度相談しながら決めていくという形です。どういうことができるかを話し合って、自分にできることで協力していきたいと考えています。

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Pinnacle(ピナクル)は「勝者歓迎」がコンセプトの「規制無し&高オッズを誇るシンプルイズベストなブックメーカー」です。日本語・日本円に対応、24時間の日本語サポートも完備。eSports分野にも強く、賞金総額50,000米ドル(約650万円)の「ピナクルカップ」も主催。ベット項目は少ないながら、日本では上級者が好んで使う傾向が強いハイクオリティなブックメーカーです。Pinnacleの詳細解説はこちら。https://buku-saka.com/bm/pinnacle/

 

南葛以外でも幅広く活動。 ”まず自分が楽しむ”を考えて

──現在は主な活動をされているのでしょうか。

昨季までプレーヤーとしても契約していただいていた南葛SC(関東リーグ1部)で、ホームゲーム運営統括やパートナー営業の仕事をさせてもらっています。プレーヤーの頃から裏方の仕事もさせていただいていたので、業務としては続いている形です。今季からは自身の活動を外でも広げられるように、正社員から業務委託に切り替えていただきました。

南葛では4年間プレーさせてもらいましたが、このクラブはキャプテン翼という世界中にファンがいるIPを持つクラブです。それがあと2年でJリーグまで届くところにいます。これ、Jリーグっていう名前が出てきた時点で、すごくおもしろいことになるぞって思いませんか?そんなクラブ、J1からJ3探してもないですし、独自の強みだと思っています。

南葛がJ1に上がる頃には、世界中にファンがいて、注目されているクラブになっていると思います。そんな魅力的なクラブで、僕は自分ができることとして、ホームゲームのようなイベント現場やプレスカンファレンス、パートナー向けパーティーの運営に関わっていたいと考えています。

 

──南葛以外での活動を広げられるように契約形態を変えたということですが、どのようなことをしているのでしょうか。

イベント関連の仕事をしていたり、オーダーをいただいて絵を描くこともしています。過去に5期ほどやっていたアパレルの仕事をもう一度復活させることも考えています。

ただ今は南葛を広める活動、ホームゲーム9試合をしっかり裏で支えることが軸なので、そこがおろそかにならない範囲で自分のやりたい仕事を増やすチャレンジをしていこうと考えています。

サッカーに関しては、シュワーボ東京(東京都リーグ4部)でプレーすることになりました。監督であるLeo the footballさんのYouTube(※)を興味深く見ていて、ちょうどその頃、南葛でプレーヤーをやめて草サッカーやるか、それとも仕事だけにするかを考えていた時期で、東京都4部であれば拘束も厳しくないだろうなと思って、練習参加させてもらうことになったのがはじまりでした。

彼のチャンネルでも、加入するまでのドキュメント動画をアップしてくれていて、プレッシャーも感じていますが(笑)、カテゴリーを気にせず楽しいサッカーをして、仕事も頑張るという生活になりそうです。

※編集部注

Leo the footballさんの関連動画がこちら。

 

サッカーにとどまらない活動は、サッカーを突き詰めることで見えてきた

──プロサッカー選手としての区切りというタイミングになると思いますが、これまでと現在で変化はありますか?

サッカーが外れた変化というのは特にないですね。元々いろいろなことをやってきているように、僕は固執する能力がないというか、欠如しているんだと思います。

ここだけに一点でやりたいとはならなくて、ここは楽しいよね、でも右も左も上もおもしろそうだし、下も魅力的だなっていうイメージで多角的やっていたことで自分が形成されてきて、違う側面からそれを見た人にとって魅力的な人間になっていくなっていう感覚を持っています。その意味では、あまり変わらないですね。

ただ、やらなければいけない責任というのは、プロサッカー選手に限らずどの立場でも必ず発生するものだと思います。そういった責任を果たし、人を裏切るような行動をしなければ、たぶん何をやってても楽しく過ごせるだろうっていう感覚があるんです。

あとは ”まず自分が一番楽しむ” ということを念頭に置いていたら、周りにいる人にとっても結構楽しい存在で、おもしろいと思ってもらえるのかなとも感じています。

 

──そう考えるきっかけはあったのでしょうか?

おそらくそれは、ハノーファーのセカンドチームからトップに昇格できなかった経験があるからだと思います。トップでの練習試合やプレシーズンマッチにも出ていましたし、トップで契約できそうな手応えがあったんですが、そこでケガをしてしまいました。ヘルニアで半年以上を棒に振って、結局叶いませんでした。酒井宏樹がドイツに来て、一緒にできるかもと思っていたので残念でしたね。

その後本調子に戻って、これから再チャレンジをと思っていたタイミングで、(ラージリストに入っていた)ロンドン五輪の可能性もなくなり、第一線でという意味では、ひとつ大きなポイントでした。

残念なことではあったかもしれないですけど、サッカーを一生懸命やることで、サッカー以外でも必死にやって、楽しむことが大事だとは思うようになったと思います。

 

Jリーグクラブで感じた「日本らしさ」とラオスへの移籍

──そこからタイ、日本、ラオス、インドネシアとアジアでプレーされました。

ヘルニアは手術せず、自重トレーニングで治しましたが、タイでプレーして稼いでからもう一度欧州に戻ろうと思ったものの、タイミングも合わず、Jリーグの千葉で1年やらせてもらうことになりました。

ただ、千葉では海外でやっていた感覚とは違ったんですよね。何か自分にしっくりくる感覚がありませんでした。僕の力が足りなかった、示す能力がなかったら周囲にそれを認めさせる能力がなかったということなんですけど。

トレーニングマッチで3点決めても、翌週の公式戦でベンチに入ることもなく、それが2週連続続いた時に気持ち切り替えたということがありました。

語弊があるかもしれませんが、自分がうまくなることに力を入れました。元々個人で練習を見てくれていた方から吸収できることを全力で吸収しようと。そこでマンツーマンでやってもらって、ある程度うまくなったと手応えを得ることができました。ただ、クラブで使ってもらうことはできませんでした。

チームメイトが居残り練習をしている中で、すぐ切り上げていくところを見られたりもしていたと思うんですけど、それは何か日本らしいなと感じました。 ”残ってやるやつが正義” みたいな。

もちろん、出られなかった原因はそれだけじゃないと思います。でも、せっかくサッカーをやっているのであれば、変な日本らしさの中でだけではなく、それまでにプレーした海外での経験のように、さまざまな文化や人のつながり、見たことない景色をもっと見られるようになりたいと思うようになりました。

そして誰も行っていなかったラオスに行きました。ラオスのクラブからオファーがあったからなんですけど、おもしろそうだと魅力を感じました。

 

ラオスで考えた「幸福とは」。サッカーを軸にしながら多方面での活動もスタート

ラオス時代の能登正人選手

──ラオスへの移籍はどのようなものでしたか?

ラオスは所属した1チームだけが強かったので、ラオスリーグでは優勝できました。

ラオスではジュエリー製作も始めました。金銀銅といった鉱山資源が豊富だったことで、やってみようと思うようになりました。

ラオスは物という部分では何もありませんでした。でも、実際行った人にしかわからないと思うのですが、人生とは、幸福とは何かという基準が変わるような国だと思います。掘っ立て小屋みたいな家で、裸足で子供が走り回ってケラケラ笑っていて、めちゃくちゃ幸せそうなんですよ。

日本では、不自由しない生活状態でも不幸せで笑っていない人もいっぱいいるし、すれ違う人がちょっとハッピーじゃなさそうだなと感じることは多いですよね。

だから、物があれば良いというわけじゃない。そういうことをゆっくり考える時間になって、自分の中で結構大きく、革命的に変わりました。そんな環境で1年どっぷり浸かっていたのは自分の中で大きく影響しているでしょうね。

ラオスリーグで優勝した後、ウルグアイ人のチームメイトとインドネシアにサーフィン旅行に行ったらそこで次のチームが決まるということがあったのですが、そこから先は、サッカーだけではなく、おもしろいことをずっとやってた感じです。

サッカーは自分を守ってくれるものという意味でも、真剣に向き合ってきたし、それは草サッカーをやる時も変わりません。でも、 ”サッカーだけ” とは考えていません。

 

──海外から一度日本に戻られてからは、より幅広い活動をされるようになっています。

インドネシア時代の能登正人選手

インドネシアでプレーしていた27歳の頃に、翌年マレーシアでプレーすることを考えていて、現地でサイン直前まで進んでいたタイミングで、岩政(大樹)さんから電話があったんです。

『来年からプレーイングコーチの形で日本の社会人チームでやるから、来い』って。

岩政さんから電話かかってきて呼ばれることって、今後の人生でないよな、目先のお金よりも人生としてのおもしろさはそっちにあるかなと思って、東京ユナイテッドFC(関東リーグ1部)へ入ることになりました。

岩政さんとはタイで同じカテゴリーで対戦もしていましたし、僕のこともわかってくれていました。強面で周りを寄せ付けない感じがありますが、それをまったく気にすることなく話をさせていただいたんです(笑)そこから面倒みていただいていました。

後から『自分がうまくなりたいことに純粋に貪欲で、声をかけてきた後輩はお前が初めてだった』と言ってもらったので、突っ込んだのは間違いじゃなかったなと(笑)

僕のことなんて岩政さんぐらいの人が普通覚えてないと思うんですけど、覚えててくれて直接電話くださったのにはすごく縁を感じていて、今思い返しても、おもしろいと思った道を選択をしてよかったなと思っています。

 

イベント会社勤務のサッカー選手。現在の仕事にもつながる経験では、幕張メッセ”三徹”も

──東京ユナイテッドでプレーしながら、他の活動を広げたのでしょうか。

当時27歳という年齢もあって、数年はサッカーで稼ぎつつ、早めにサッカー以外のところでも仕事ができるようになりたいという考えがありました。

その頃は練習が夜にあったので、それまではイベント会社で仕事をさせてもらっていました。どうしてイベント会社を選んだかというと、いろいろな分野の企業のPRしたいことを知りたかったり、様々な世界を見られそうだと思ったからです。

個人のつながりから働かせてもらうことになったその会社では、朝から仕事して、17時ぐらいになったら恵比寿の事務所から練習へ行くという生活でした。でも忙しいときは幕張メッセに3日間徹夜することもありましたね(笑)

そんな1年を過ごす中で、サッカーでは目標としていた大会で負けてしまいましたが、岩政さんのラストゴールをアシストできたり、思い出として残っています。

もちろんプレーヤーなので、プレーを続けたいという気持ちは常に強く持っていましたが、現実的に何歳までサッカーができるかと考えていた中で南葛からお話をいただき、プレーと裏方の仕事をさせてもらうことになりました。

それまで ”点” だと思ってやってきたことがつながっていて、すべてが今に活きているという形です。自分でもすごいつながり方をしているなと思います。

 

サッカー以外をサッカーのスキルにつなげてきた二刀流。さまざまな経験によって枠を広げ続ける “能登正人” の将来

──今後のご自身については、さらに活動幅を広げていくことをイメージされているのでしょうか?

はい、もう ”これだけやる” ということはたぶんないと思うんですよね。どうなっていきたいのか、自分でもわかりません(笑)以前から洋服は好きだったものの、まさか自分で作って売るなんて考えていませんでしたし、ジュエリーもそうです。

能登正人さん

イベント業界の会社に入って、そこで培ったもので生きることになるとも考えていませんでしたけど、南葛に入って、ホームゲーム9試合の運営を任されるようなポジションになるなんて、おもしろいですよね。

今は目の前のことを一生懸命やることで、次につながることがあればチャレンジしてきたいと思っています。

 

──サッカー以外の活動をする中で、サッカーと共通点を感じることはありますか?

活躍できる人は、自分を客観的に見ることができる人だということはあると思いますね。

サッカーでは適応ポジションを示す図がよくありますが、色塗られていない隣のポジションだとできないという選手も少なくありません。でも、同じポジションに自分より能力が高い選手がたくさんいる中では、自分をどう生かしていくかを考える必要があります。そこはサッカー以外の仕事でも似た部分はあると思っています。

試合に出るために、与えられた仕事でどんな貢献ができるか。他のポジションでも一定のパフォーマンスを出せるように努力するとか、自分で勉強して得意分野を増やしていくことは重要だと思ってやってきました。その結果、キーパー以外のすべてのポジションをある程度やれるようになりました。

元々の得意分野にプライドを持つことももちろん大切ですが、広げることで見えることもあると思っています。

 

──そういった考えは以前から持っていたのでしょうか?

サッカー以外のところから吸収できることの方が多いと思って、それがサッカーにつながると考えています。

子供の頃はいろいろな習い事をさせてもらっていました。水泳をやったり、動体視力を良くしようと思って卓球を半年やったりしたことで、さまざまなものを吸収できたのかなと思っています。それは勉強についても一緒だと思います。

一生懸命やってたことが、その瞬間では点でしかないんですけど、先々のどこかでつながるという感覚をずっと持ってきました。だから、サッカーやりながら(ファッションショーの)ランウェイを歩いたりもしたんですよね。

当時は周りからめちゃくちゃ言われましたよ、『サッカーだけやっておけ』って(苦笑)。でも僕としては、”姿勢は大事” とよく言うけど、実際に姿勢を正したら良くなるのかを体感したかったっていうのもあったんです。

いざランウェイを歩くとなったら、やっぱりウォーキングからやるんですよ。立ち姿勢から良くするような練習もしました。そうすると、プレーする時の視野が変わりました。見えていなかったところが見えるようになったし、それは周囲からも言われるぐらいでした。明らかな変化があったと思います。

ランウェイを歩く一歩目を出て、みんなが見ている中でポーズを決めて戻るときの所作の瞬間の高揚感は、結構サッカーに似ているなとも思いましたね。

そういったことは実際にやってみないとわからないじゃないですか。おもしろいことがやれるチャンスがあるなら、それを拒否するという選択肢は僕にはありませんでした。

一生懸命やります、できるかわからんけど。でもしっかりやります!

という気持ちで。そんなことの繰り返しですね。

せっかくの人生なので、自分が求められてる時に自分にできることを一生懸命やろうと。

僕には特別驚くような能力があるわけではないですが、期待してくれた人たちを裏切らないように頑張ることで恩返しができればとは常に思っています。

 

──能登さんを真似したいと思う選手も出てくるのでは?

いろいろ聞かれることはありますが、僕自身みたいになりたいと思うことはあまりしない方が良いと思いますね。自分が選択したことに対して耐えないといけない時間もありますし、当然ながら悩むことも多くなります。それは表に見せるものではありませんが。

──息子さんが大きくなってお父さんのように踏み出したらどうします?

それはいや何も止めないですよ(笑)ひとつの個、ひとりの男の子として見たいと思います。

 

──息子さんが小学生ぐらいになった時、お父さんの仕事なんですかと聞いたら何と答えるのでしょうか。

能登正人、それでいいじゃないですか(笑)なんか楽しいことしてる人、でいいかなと思います。

 

編集後記

もともとはPinnacleのブランドインフルエンサー就任をきっかけにこのインタビューが実現した訳ですが、実際に話をうかがってみると、色んな分野で興味深い話がどんどん出てくるので、もはやブックメーカーにとどまらない内容に仕上がりました。

これだけ多分野かつワールドワイドに、しかもフットワーク軽く活動してきた方だからこそ、スポーツベッティングの活動にも先入観なく取り組めるんだな、というのが理解できたかと思います。

日本のスポーツベッティング環境は法整備が整っておらず、まだまだ環境が整備されているとはいえません。しかし近い将来、能登正人さんのような現役/元プロ選手はもちろん、そして現場に近い立場の人たちにもスポーツベッティングが受け入れられる存在になっていくことを願ってやみません。

能登正人

1990年生まれ。大阪府枚方市出身。高校卒業後、両親に借りた100万円を握って渡欧。スペイン、ドイツ下部でのプレーを経て、ハノーファーのセカンドチームに所属。2013-14シーズンはタイの複数クラブ、2015年はJ2千葉でプレーした。ラオス、インドネシアのクラブ所属の後は東京ユナイテッド、南葛SCと渡り歩き、現在は南葛SCでホームゲーム運営やパートナー営業を任されながら、多方面で活躍をしている。

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